しっかりまとめをするから「学びの履歴」になる

手が覚えている生きた「知」
半年かけて取り組んできた金属加工の作品「ねじ回し(マイナスドライバー)」が完成しました。2年生の生徒たちが、努力が詰まった作品です。
作品発表会のテーブルの上には、真鍮と鋼のドライバーが光っています。この日の授業では、この作品を前にして、これまでの学びや振り返りをiPadにまとめるという活動をしました。勉強でも何でもそうですが、作品ができたところで終わりにすれば、それは「やった」で終わってしまいます。何をして、どこでつまずき、どう段取りを組み直したのか。自分でもう一度たどって書き残したとき、はじめて学びの履歴になると私は考えています。
まとめの時間に、私は生徒のそばに行って「すごいね、どうやって作ったの?」と聞いてみます。すると、生徒の口からでてくる言葉は、半年分の努力が詰まったメイキングストーリ―です。よどむことなく、自分の言葉が次から次へと出てきます。覚えたことを読み上げている話し方とは違います。
旋盤のハンドルを回すと、材料が削られている振動が手に伝わってきます。刃の当て方が変わると、その振動も変わります。生徒の話には、そういう手の感触がベースになっています。材料の性質も、作業の段取りも、手が覚えていたことと一緒に出てくる。私はこれを、手が覚えている生きた「知」だと思って聞いていました。どこまでが手の記憶で、どこからが言葉なのか、聞いている私にも線は引けません。
仕上げは研磨です。紙やすりの番目【#120から#1500まで】を、粗いほうから順に上げていきます。番目を飛ばすと、前の傷が残ります。地味で、時間のかかる作業です。
最後に、ピカールという研磨剤を布につけて磨きます。クリーム状の、”金属用の歯磨き粉”のようなものです。磨くほど、布は黒くなっていきますが、その黒い布の中から、作品がきらっと光ります。あの輝きを自分の手で出したときの気持ちは、やったことのある人にしかわからないと思います。
作品がそろったところで、品評会を開いて、お互いに評価し合うと、並べられた一本ずつ違います。学びの足跡は個別であるということの証左で、またそれはその人自身が獲得してきた学びが表れているのだなといつも思と同時に、学びの個性というものに注目せざるを得ません。(技術科 沼田 和也)






