「耳がキーンとなった」の向こう側

つながりの芽としての金属加工実習
中学2年生の技術の授業で、7種類の針金をハンマーで叩き延ばすという活動を行っています。金属の展延性を身体で確かめるための、ささやかな実習です。
授業中、生徒がふともらす一言がありました。
「耳がキーンとなった」。
針金をハンマーで叩き続けた後の、ごく自然な感想です。授業の目的は金属の展延性を体感することであるから、この一言は余計なつぶやきに見えます。しかし、私はこの一言を聞いた瞬間、はっとしました。なぜか。
労働安全衛生法という法律がありますし、そこには工場や現場での騒音を規制する条文が並んでいます。それを授業で教えることはできますが、文字で読んだ条文と、ハンマーを打ち続けた後に自分の耳が訴える不快感とでは、まるで重さが違う。「耳がキーンとなった」という経験は、その法律が生まれた理由、つまりかつて多くの労働者が同じような体験の中で長時間働いていたということへ結びつきます。
教師の仕事は、正しい答えを教えることだけではないと思っています。生徒の言葉の中に眠っている「つながりの芽」を見つけることも、仕事のうちだと思っています。「熱い」という言葉は、切削油を発明した先人への感動へつながる芽となりますし、「硬い/やわらかい」は、ビッカース硬度という指標づくりの先人達の試行錯誤へつながる芽と言えましょう。そして「耳がキーンとなった」は、労働者の身体的苦痛の歴史へつながる芽であるのです。
生徒たちはまだ、その芽がどこへ伸びていくかを知らないかもしれません。しかし、身体の中にその感覚が刻まれている限り、いつかどこかで「あの時の耳の不快感はこういうことだったのか」と気づく瞬間が来ます。例えば、クライアントの声に耳を傾け、寄り添いながら解決をお手伝いしていくお仕事などにもつながるのではないでしょうか。授業とは、そういう伏線を張る場所でもあるのかもしれないと思っています。
AI時代と言われる今、調べればわかることはAIに任せればいいでしょう。しかし「耳がキーンとなった」という経験は、誰も代わりに持つことができないのです。身体をくぐった言葉だけが、知識と感性をつなぐ橋になります。教師の観察眼とは、その橋がかかる瞬間を見逃さないことではないでしょうか。(技術科 沼田 和也)




