2022年8月26日夕方、課外授業「同中学びプロジェクト」(オンライン開催)で、元中学校数学教員の榊忠男さん(さかきただお 現在神奈川県在住)から東京大空襲のご体験を中学生に話していただきました。
1945年3月10日夜に起こった東京大空襲のとき、榊さんは18歳でした。榊さんはその夜のできごとを鮮明に覚えておられて、アメリカ軍の334機のB29爆撃機が2時間半にわたって東京市街を焼き尽くしていった様子を、ご自身の行動とともに丁寧にお話してくださいました。日本側は防衛のため飛行機が飛び立ちましたが、B29は日本の飛行機が飛べる高さよりさらに高いところ(9000m以上)を飛んでいるので、反撃ができません。それで、高度を下げたB29に日本軍の飛行機が体当たりしたとのことです。日本の木造家屋を燃やすために作られた「焼夷弾」(しょういだん)は地上70mあたりで爆発し、周囲に油をまき散らします。当時、道路のあちこちに「防火水槽」(ぼうかすいそう)があって、それを使って消火活動をせよということになっていましたが、市街は炎と熱風に包まれ、消火活動ができるような状況ではなかったそうです。榊さんは親戚の家へ行って、安全な場所へ連れて逃げようとされました。隅田川では川の上を炎が渡るのが見え、火から逃げて川に入った人も水から顔を出せば、水面も炎に包まれていて、榊さんは多くの人たちが河原で亡くなっていたのを目撃されたそうです。後日、役所の人たちが亡くなった方々の遺体をトラックに投げ入れて運ぶ様子も目撃されました。戦争の中にあっては、人の尊厳はなくなってしまうことを私たちに伝えてくださいました。
榊さんはご自身が生まれてから、満州事変(1931年)→満洲国「建国」(1932年)→日中戦争(1937年)→太平洋戦争(1941-1945年)へ日本が戦争を拡大していく経緯、当時の子どもたちの状況(日本が戦争にひた走る空気の中、子どもの遊びは戦争ごっこだったこと、太平洋戦争終盤、学徒動員で毎日中島飛行機の工場へ行って働いていたが、米軍に組立工場が破壊されているので飛行機は全く生産されなかったことなど)を教えてくださいました。
中学生の皆さんの多くは、戦争を直接体験された方からお話を聞くのは初めてで、当時の生活、戦争が終わったときの気持ちについて質問がありました。榊さんは海外のラジオ放送などを聞いている人からの情報で日本が負けるとわかっておられて、8月15日、日本が無条件降伏して戦争が終わったときは仲間と喜んでおられたそうです。
あらためて平和の大切さ、戦争・平和を語り継いでいくことの大切さを学びました。
貴重なお話をしてくださった榊さん、ほんとうにありがとうございました!
(文責 園田毅)