先週、3年生の自由研究の発表会が終わりました。ポスターセッション形式の発表となり、とてもすばらしい発表会であったと思います。前夜の準備段階から、教室に展示されたポスターをみるだけでわくわくしていましたが、当日はもっとすごいものでした。実に丁寧にやってこられた研究、とてもユニークな視点で問いを立てられた方、ゴールへのアプローチにオリジナリティが発揮されているもの、とても見ごたえ聴きごたえのあるものでした。もっと質問したいと思う気持ちを持てたことは、この発表が成功したことの一つの証拠ではないかと思います。
発表を聞き終えた1年生の生徒はこの発表会について次のように話してくれました。
「私と同じようなテーマで取り組んでおられる方がいて、私だけじゃなかったんだと嬉しくなりましたし、私ひとりでは気づかなかった視点とか考え方とかを聴くことができて、とても刺激をいただきました」
学ぶことが楽しいし、時間がもったいないと思える方たちが、刺激し合える空間、アイデアや学びを共有できる空間、それが今回の発表会ではなかったかなと感じました。
このような学びの活気にあふれる会場で、もし私が学生だったらと想像すると、おそらく自分のやったことに自信が持てずに「穴があったら入りたい」と思うような取り組みしかできなかったのではないかと思えました。本当に逃げてしまっていたかもしれないなと思いました。私の場合、痛い思いをしてから火がつくタイプなので、私のようななまけ癖のある人にとっても、このような機会は、ある意味絶好の学びのチャンスになっていると思いました。
ところでよく、「先生は自由研究はしないんですか?!」とドキッとする質問をいただくことがありますが、それは実は細々と続けています。学会誌などに投稿して、掲載してもらっています。その学会誌なり研究雑誌への投稿というのは、教員にとってとても大事な学びの機会になっています。学びよりも実は反省する貴重な時間となるのです。なぜなら、学会誌や研究誌に投稿すると、はずかしながら真っ赤になって返ってきて(審査する方が欠点や課題を指摘してくださる)、別紙にはたいてい「別紙の通りの指示に従えば、再査読可」という注文をいただくのがたいていなのです。そんなとき、いつもこう思います。「自分も大したことがない。謙虚に学ばなくては」という気持ちになるのです。自分もたいしたことないのに、教員というだけで偉そうな態度になってしまっていることに気づきます。教員のような立場に立つとなおさらこのような反省(省察)する機会が大切だと感じます。
そして掲載されると、思いがけずいろいろな方からメールやオファーをいただきます。出版や講演の依頼、共同事業の提案などです。それがまた次の授業改善や、学びプロジェクトのアイデアのきっかけとなっていきます。「同志社中学校では教員も発信しています!」というコーナーをつくり、本校の教員が自分自信で執筆した書籍や論稿などを集めた本棚を作りました。ぜひご覧いただければと思います。 同志社中学校は生徒も教員も共に”学びに向かう学校”として、共に学びに対して真摯に努力していきたいです。
特に技術科で扱う内容は社会的な事柄と深いです。技術での学びが、社会とのつながりを意識してともに学び合いながら、立場を越えてプロジェクトを基礎にした学びを展開していきたいと考えています。 (knumata)