友達の背中を押すことができる行事とは?
目の前のすべてがかけがえのないものに見える瞬間
学園祭は2年生行事の演劇からはじまり、3年生の発表、1年生の発表、生徒会行事を経て、最後の後夜祭プログラムへとつながります。さまざまな個性が集まるクラスの中で、演劇など一つのものをつくり上げていきます。喜びや悔しさを感じながら負荷の高い「劇づくり」に挑みます(→詳細は「バックステージの緊張感」)。緊張から解き放たれ、準備してきたことが一つひとつ終わっていく安心感や達成感が、生徒達のボルテージをあげていきます。そんな中ではじまる後夜祭は、中庭いっぱいにビートの効いた音楽が響き渡ります。自分たちの成果を褒めたたえ合うかのような解放された空間で、生徒たちはリズムにあわせて踊ります。ハリウッドの映画に出てきそうなシーンです。中庭中央は、音楽と踊り、解放された笑い声、歓喜の空間となっています。
盛り上がるエリアから少し離れたところに二人組や三人組で何をするともなく見ている人たちもいます。入っていきたいけど、今はちょっとその勇気がない。みんなが踊っているすぐそこまで来ておきながら、自分の中では「踊らない理由」をさがしている瞬間です。そんなときある生徒(Aさん)が、 ”見に来ている” 二人組の生徒たちに話しかけに行きました。会話の詳細はわかりませんでしたが、初めて話しかける間柄に見受けられました。話かけたAさんは、踊らない理由を探している子の腕をとって中央を手でさすアクションをします。話しかけられた生徒は、手を左右に振り、照れ笑いしながらさらに首を左右に振るアクション。そのあと2,3の言葉のやりとりをしたあと、Aさんはその”踊りたいけどそのきっかけがつかめない”生徒の背中をやさしく押して、中央の方へいざないました。
音楽・ダンスの後夜祭、自分たちだけが楽しめばいいだけ見えるかもしれないけれど実は違うのではないかということをうすうす感じていました。それは、”みんなで盛り上がる”という合言葉はひとつの口実であって、初めて会った人も含めてここにいる人たちと、空間を共有する中で誰もがここにいていいんだということを確かめているのではないかということです。ここにいる他者と、ここに流れる音楽、自分たちでつくった飾りつけ、それらすべてが今の自分たちにとって、かけがえのない大切なものに映っているのではないかとさえ思えました。
最後のプログラムである花火の打ち上げの場面でも、いろいろな生徒が自分たちの時間をつくりだすために状況をよんで動いていました。やや風があったため花火の打ち上げ場所を広めにして立ち入り禁止コーンを設置したり、ハンドマイクで大衆の移動を促す生徒がいれば、それにつづいて誘導する何名かの生徒たちもいる。段取りよく花火の打ち上げが始まる。花火の打ち上げのたびにユーモアを交えて会場を沸かす生徒、終わった花火を会場脇に移動させ念のため使用済みの花火筒に水かけをする生徒。クライマックスの場面では、これまでの自分を振り返ったり、今の気持ちをみんなの前で話し出す生徒、こんな生徒たちの感動の場面をみられるのは幸せだと思いました。
「終了宣言」のあとの片付けもお客さんの雰囲気ではなく、この大切なイベントの一部であるかのごとく価値を見出しているように見えました。ある役員の生徒が片付けながら「この係を今年やれて本当に良かったです」と、私に宣言するかのような口調で言ってきました。この一点のくもりのない口調に圧倒されて、「そうやね。良かったね」としか言えませんでしたが、その生徒はすぐに「はい、本当に良かったです」と繰り返してきました。私はしばらく考えて「やっぱり何が良かったですか?」と聞くと、その生徒は「みんなが楽しそうにしている姿があって、この係をしていなかったら、こんな見方はできなかったと思うし、そういう行事をつくっている中の一人としてかかわれたこととか、今日ここに集まっているみんな一人ひとりに感謝したいです」と、次から次へと言葉がでてきて、その勢いに圧倒されてしまいました。
この行事は他の学校行事とは質的に違います。勝敗もなく白黒はっきりつけられない世界に正答はありません。その中でどう判断して行動していくのかが問われている行事なのです。何に価値があるのか?その先にどんなビジョンを描き、どのようなミッションをもって行事に取り組んでいくのか?自分達で判断し行動したそれは、精一杯の正解と言えるのではないかと思えるのです。だからこそ、その行事でみせる生徒たちの姿は、私たちの心を動かすのだと思います。生徒達からたくさんの学びと感動をいただくことができたと思うのは私だけではないと思います。(沼田)