学びの感性OSとしての学びプロジェクト(1)
世代を越えて社会と学びを編みなおす
同志社中学校で展開されています学びプロジェクトへの思いを何回かにわけてお伝えしていきます。今回は、「学びの感性OS」をテーマにお話します。
教科活動や教科外活動を合わせて教育課程と呼ばれていますが、そういったアプリケーションの土台を支えるOSになるものが学びプロジェクトで育まれる「学びの感性OS」ではないかと考えています。そういった学びの感性OSをいかに自然な形でじわっと根底に流れていてほしいと願います。
「生徒が学ぶ」という言葉を聞いた時、教職員の心の中に少なくとも教える教師や大人がいて、その教師の「教える」という行為を通して生徒が何かを知ったり、何かをできるようになったりする風景を想像してしまうのではないでしょうか。教職員である私たちは、自分が思っている以上に、教えたがり・世話したがりで、生徒の学びのプロセスをも可能な限り計画性を持って教えを遂行したいと思っていると思います。こういった立脚点から、生徒たちがより学びの主体として生き生きと活動できること、学びに対する野性のようなものを呼び覚まされる姿を想像しようと考えれば、これまでの学校の”枠”にはない第三のエリアのようなものが必要になってきます。そのエリアこそが、本校で行っている学びプロジェクトでありたいと考えています。先走って言ってしまえば、野性的な学びを呼び覚ますための基礎として、学びの感性OSのようなものです。学びプロジェクトには、成績やスコアはありません。系統的で長期的なカリキュラムや教具・教材が決まっているわけではありません。あるのは、世代・立場を越えた「学びたい」と「教えたい」が交差する空間だけなのです。
実態はどうかと言えば、大人も生徒もその「学びたい」と「教えたい」にものすごいエネルギーを注いでいて、ものすごい熱量のアウトプットがでてきます。一言の感想や気づきを発信する生徒、A4レポート2枚にも及ぶような気づきを発信する生徒、中には第一線で活躍される起業家や大学の第一線の研究者の皆さんに対して、自身の取り組んでいる事柄の疑問や意見を躊躇することなく発信したり、討論しようとしたりしています。その様子には、もはや”一方的に学ばされる生徒”像は1ミリもなくて、外発的動機付けではなく内面から沸き起こってくる興味や疑問をぶつけ、広義の学びというプロジェクトにコミットしている姿勢が、等身大のままの姿で見ることができます。
そ感じることは、これまでの学校で用意されていた教科学習や行事はアプリケーションのようなもので、その土台となる感性のOSに注目する必要があるのではないかと思います。そういったOSとアプリケーションが調和した時、アプリケーションとして用意されている教科学習やクラス活動と有機的に結びつき始め、生徒たちの本能的で野性的な学びが喚起されるのだとうと思います。そしてその学びたいというちからは、学校の枠をこえて実社会と繋がり、私たちが等しく抱えている共通課題へコミットしていくときに必要なものとして位置づいてくるのではないでしょうか。学びプロジェクトは学校と社会を自然なかたちで繋げるファンデーションのようなものであり、生徒たちが社会と自身の学びを編みなおしていくための装置のようなものかもしれません。
次回は白黒テレビからカラーテレビの時代へというテーマでお伝えします。(沼田)
*学びプロジェクトインタビュー動画 https://youtu.be/6YXQH5yDX0I
*気づきnoteのすごさ