本校(旧制同志社中学)ご卒業の佐伯昌彦さんが、ご自身の戦争体験を話された記事が京都新聞に載りました。(11月27日付) 中学生の皆さんも「特攻」という言葉を知っている方もいらっしゃると思います。「秋水」(しゅうすい)というロケット戦闘機(上写真)も一度出撃すると生還はほぼ不可能とされた兵器です。佐伯さんは同志社中学校4年生(現在の高校1年生)で軍隊に志願、配属され、「秋水」の乗組員として終戦を迎えました。
今回(12/26土)、母校の中学生の皆さんにお話をしてくださることになり、20人の中学生の皆さんが直接、佐伯さんから貴重なお話を聞きました。中学生からも多くの質問が寄せられて、佐伯さんはていねいに答えてくださいました。
佐伯さんは1927年生まれ、1940年に同志社中学校(旧制)入学されました。当時の中学校は5年制で、 同志社中学校4年の時に志願して、軍隊(海軍)へ行かれました。
日本は、日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)以降、ずっと戦争を続け、1937年から中国との戦争(日中戦争)を始めました。
佐伯さんは、当時の同志社中学校の様子もよく覚えておられ、普通の歌でなく軍歌を歌っていた(戦時中なので軍歌を歌う空気だった)こと、1941年、中学2年生のときに太平洋戦争が始まると、日本軍の人が「配属将校」として、同志社中学校へ来て、それまであったアメリカ人教員による英語の授業がなくなったことを話してくださいました。
佐伯さんは、4年生のときに校長に軍隊へ行くことを勧められ、海軍航空隊へ志望されました。死んだほうがましと思うような厳しい「教育」が行われ、上官が暴力をふるうところでした。1年後、1944年4月に卒業、「秋水」の部隊へ配属されました。「秋水」は、最初の計画段階では攻撃した後は地上へ戻ることになっていましたが、途中で特攻兵器と変更されました。1万メートル上空にいるB29に体当たりして自爆することになりました。同級生の中には「伏龍」(ふくりゅう)、「震洋」(しんよう)という別の特攻部隊へ配属された方も多かったそうです。
お話の後にも中学生からたくさんの質問があり、当時の同志社中学校の様子、予科練での勉強、訓練の内容、なぜ日本は戦争を始めたのか、日本は負けると思っていたか、中学生へのメッセージなど聞かれました。佐伯さんは、明治維新以降、日本はどんどん戦争をやってそれに勝っていたので、負けるとは思っていなかった。同志社中学校では入学当時は英会話の授業もあった、日本は石油のために戦争を始めたのだろうと答えてくださいました。日本は負けると思っていたかという質問については、最初は元々負けると思っていなかったが、1942年、ミッドウェー海戦で負けた後、生き残った人が佐伯さんと話す機会があり、「佐伯くん、(ミッドウェー海戦で)日本の船なくなって、戦争負けやで」と言われた。また、1943年にアリューシャン列島アッツ島という島で日本軍が「玉砕」したことがあり、それが国民に知らされたことなどで、段々、日本は負けるのかなあと思い始めたそうです。
1945年8月15日、戦争に負けたとわかったとき、周りの仲間と「よかった」、「これで帰れる」と喜びあったそうです。
戦後、同志社中学校をご卒業され、立命館大学へ進学され、京都市役所土木課で、京都の街の復旧に尽力されたそうです。音羽川の修復(左京区)、京阪電車の鴨東線を作るときなどに行政の中心になって街づくりを進められました。
最後に、中学生の皆さんに「皆さんの時代、皆さんの子どもの時代になっても、戦争は絶対にやってはいけない」とメッセージを伝えてくださいました。
貴重なお話、ほんとうにありがとうございました。
(文責 園田毅)
<参考資料>
京都新聞 2020年12月1日(web版)より抜粋
幻のロケット戦闘機「秋水」18歳の操縦兵候補は今…
「要するに私は1発の弾だった」戦争に怒り
戦時中の日々を語る佐伯さん
太平洋戦争末期、幻の有人ロケット戦闘機「秋水」の要員だった男性が京都市伏見区にいる。海軍飛行予科練習生に志願し、長野県の基地へ配属されて秋水の操縦訓練を受けた佐伯昌彦さん(92)。秋水は、最高時速900キロで高度1万メートルまで急上昇し、空襲を繰り返す米軍機B29を迎え撃ち、本土空襲を阻止するため日本軍が開発を急いだが、未完成のまま終戦を迎えた。一般には存在をほとんど知られていない。
佐伯さんが秋水の操縦兵候補に選ばれたのはわずか18歳。仮に敵機の撃墜に成功したとしても死ぬし、失敗しても墜落死を逃れられない兵器だった、と怒りを込めて語る。「若い人に戦争の無意味さを伝えたい」と京都新聞社に連絡を取り、当時の心境や訓練の様子を語った。